Dandelion――てのひら
 外は、ひどい砂嵐だった。
 轟轟と唸りを上げる風は、乾ききった大地を這い回る獣が愛する者を探してあげる悲しい咆哮なのだと、この地方に伝わる昔話にはある。
 地下深く、魔物と死者が眠る迷宮へと新たな生贄を誘うように口を開いたスフィンクスに吹き付ける風の音を聞きながら、ラルフは薄暗い階段の下に身を潜めていた。
 生まれてこの方、生きていて良かったことなど一度もない。
 自分の人生を回顧しては呪いながら、血の止らない脇腹に手をやり、気分ばかりの止血を試みる。
「ちっくしょう、……いてぇ……」
 血が止る気配など一向にない傷口から滲む血が掌を汚し、床へと滴り落ちる。
 ダンジョンの中で行き倒れた冒険者の荷物を漁っていたところを、後から忍び寄られザックリとやられてこの様だ。
 咄嗟に飛び退いて即死の傷だけは免れたが、深手に違いはない。逃げる途中で荷物を落として、手当てをしようにもポーション一つない。蝶の羽もなくては、街へ瞬時に戻ることすら出来ない。
 ここで休んでいたところで出血が止るわけでなし、息をするたびに刻一刻と体力を失うばかりで、どこか安全な場所へ落ち着く前に野垂れ死ぬことになりそうだった。
「……ちくしょう、ちっくしょう、あんにゃろう……」
 啖呵を切る事ばかり一人前の半端者のローグには、ネズミのように逃げ回って悪態をつくのが精一杯だ。
 身体の上下が泣き別れる事だけは避けられたものの、ぱっくりと口を開いた脇腹の傷は深く、息をするたびに焼け付くように痛む。
 荒い息を一つするたびに肺の奥にまで埃と黴の臭いが入り込んできて、不愉快この上ない。
 口の中に溜まった血を吐き出すと、ラルフは自分の人生を改めて呪った。
 売春婦の母親からは、五つの時に捨てられた。
 飢えと渇きで死ぬかと思ったが、運良く盗賊の親方に拾われた。それからは物乞いとかっぱらい。稼ぎの大半は取り上げられて、貰えるのは固いパンと僅かな水と、鞭打ちだった。
 いつかは奪う側になってやると思っていたが、大きくなったらなったで結局はこうして死人から金目のものを掠め取って生きている。
 挙句、死体になってすら懐に誰かを喜ばせるほどの物はなく、舌打ちされるのが関の山だ。
 本当に笑ってしまうほどにいいことなど、一つとしてない人生だ。人に蔑まれながら地べたを這い回り、強い者に媚びへつらい、弱い者から奪い取る。そして、自分より強い者からは奪われる。
 それでもラルフは一つだけ、人に誇れる事があった。
――俺ぁ、まだ誰も殺しちゃいねぇ。
 こんな街の底辺を這いずりながら、幸か不幸か、ラルフは人殺しにだけは手を染めた事がなかった。
 単に殺しの仕事には適任者が居ただけであったし、ラルフ自身にも捨て駒になって人を殺すほどの度胸がなく、そしてそういう選択を迫られる状況になかった。単に運が良かったのだ。それでも、人を殺したことがないことだけが、こそ泥としてのちんけではあるがささやかなプライドだった。
 だが、それだけだった。
 モロクでは、殺さないからといって殺されない、他の街にあるような優しい法則はない。
 事実、ラルフは今、死に瀕していた。
――こんなクソ人生さっさと終わっちまえばいい。
 痛みと迫る死の恐怖から逃れようと心の中で吐き捨てるが、しかし、自身の死を納得と共に受け入れられるほどに死生観が出来ている男でもなかった。
 だから、念じるように死にたい、死にたい、と繰り返す。
「……ちっくしょう!」
 そうやって自分に言い聞かせてもなお込み上げる諸々の感情を吐き出すようにもう一度、憎しみを込めて唸る。
 振り返って誰なのか確認する暇もなく逃げ出してきてしまった。次に会ったら絶対に仕返ししてやる。そう怒りの炎を燃やしてみても、どうやら自分に次はなさそうだった。
 自身の甘さと襲撃者への恨み言を繰り返すが、それも次第に曖昧になってきた意識の中に消えて行く。
 ラルフにとって今生は、本当に一度だっていい事などない人生だった。最後の最後まで、こんな砂嵐の中で一人、誰にも看取られず惨めに死んで行くのがお似合いな、本当にどうしようもない人生だった。
 せめて一度くらい美味しい目に遭ってから死んだっていいじゃないか。そう思いはしても、もう身体が動かない。
 ぐらりと壁に寄り掛かっていた身体が揺れ、地面に倒れるのを、もはや踏み止まる余力がなかった。崩れるように自分の血で汚れた床に倒れ伏し、ラルフは目を閉じた。
 ああ、こんなに辛いなら早く死んじまいたい。せめて死んだ後ぐらいは天国に行く権利があるはずだ。天国はさぞかし金銀で綺麗で、美味い酒と飯があって、女がたくさんいるに違いない。
 そんな自分のちんけさに苦く笑うと、熱い息を吐き出す。
 不意に閉ざした瞼をちらちらと焼いていたかがり火の明かりが暗くなった。
――いよいよお迎えか……、天使はスタイルのいい姉ちゃんがいいな。
 本当は死ぬのが怖い。まだ生きていたい。どんなに体中が痛くて泣き喚きたくても、生きていたい。せめて死ぬなら、息絶える瞬間ぐらいは一人ぼっちは嫌だ。
 ともすれば泣き喚きたくなる死の恐怖から逃れるようにそんな下卑た思考に縋りつくラルフに、誰かが触れる。
 同時に、高くもなく低くもない、耳に心地良い声が砂嵐の中にかすかに聞こえた。
「……ぶ……すか、…………?」
 男なのか、女なのか。静かな声と共に、手が触れた場所から痛みが溶けるように消えて行く。
――かあちゃん……?
 微かに思考の片隅を過ぎったのは、幼い頃は確かに優しかった母だった。そしてそのまま、ラルフの意識はぷっつりと途切れて闇に閉ざされた。

back